衆院選を終えて、さまざまな分析が出ています。
その中で私が一定の納得感を覚えたのは、
「批判的な言説が野党系の自滅を招いた」という指摘です。
ただ同時に、強く思うことがあります。
批判ができない社会にしてはいけない。
これは民主主義の根幹に関わる問題です。
■ 「質のよい批判」と「悪い批判」
AIに、「質のよい批判と悪い批判ってなに?」と聞いてみると、次のように整理されました。
■ 質のよい批判
1️⃣ 目的が「改善」
より良くするための未来志向で、問題解決に向いている。
👉 「どうすればよくなるか?」という代替案がセットになっている。
2️⃣ 対象は「行動・構造」
発言内容、政策、仕組み、判断プロセスなど。
👉 人格ではなく「変えられる部分」に向いている。
3️⃣ 根拠がある
事実、データ、具体例、ロジックに基づいている。
👉 感情があってもよいが、感情だけではない。
4️⃣ 相手の尊厳を守る
否定はしても侮辱はしない。
違いを認める姿勢がある。
■ 悪い批判
1️⃣ 目的が「攻撃」
相手を下げたい、勝ちたい、マウントを取りたい。
正義感を装った感情の発散になっている。
2️⃣ 対象が「人格」
「あなたはダメだ」「動機が悪い」といった人格攻撃。
3️⃣ 根拠が曖昧
主観的な切り取りや印象論に依存している。
■ 本質的な違い
良い批判は、
「問題」と「人」を分ける。
悪い批判は、
「問題」=「あなた」 になってしまう。
■ 市議になってからの葛藤
市議になってからずっと、
「物事を前に進めない批判」と何度も向き合ってきました。
そしてそのたびにぶつかるのが、
「言論の自由だ」という主張です。
言論の自由は民主主義の最後の砦です。
権力を監視するために、批判は絶対に必要です。
しかし一方で、「良くない批判」があまりにも前面に出ると、
市民の側が「批判」というもの全体に嫌気をさしてしまう。
その結果、批判そのものへの不信が広がる。
これがいま起きている現象ではないか、と感じています。
■ 若者はなぜ高市政権を支持したのか
一般にリベラル化していると言われる若者の多くが、今回、野党ではなく、右派・タカ派とされる高市早苗氏を支持しました。
若い世代は、総論ではリベラル的価値観(多様性・対話・個の尊重)を肯定的に受け止めています。
しかし各論では、秩序・強さ・統制を支持するパターナルな傾向も見せる。
これは単純な矛盾ではなく、
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多様性や対話、個々の意見の尊重という、学校教育で教えられる「理想」
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教員の多忙化による管理的なクラス運営、発達特性のある子どもの分離、見えにくくなった経済格差といった実際の「体験」
この理想と体験のギャップから生まれているのではないか、と私は想像しています。
理想は教えられる。
しかし、体験として民主主義を学ぶ機会は多くない。
これが、現代の若者、そして私たち日本人の姿なのではないでしょうか。
■ 日本人は議論が苦手なのか
日本では、対話や討論の訓練が十分とは言いがたい面があります。
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意見を否定すると人格否定と受け取られやすい
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異なる意見は攻撃と受け取られやすい
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結果として同調圧力が強まる
こうした傾向を感じます。
しかし、民主主義は「制度」ではなく「技術」です。
訓練しなければ成熟しません。
学校教育や生涯学習の場で、
議論や批判の作法を体験的に学べる機会を増やしていく必要があるのではないでしょうか。
そして、日常生活のなかで「ままならない他者」と共に生きる経験を重ねることも重要だと思います。
言論の自由を守りながら、民主主義の成熟度を上げていく。
それができなければ、
強いリーダーに「任せたい」という依存的な心理が、これからも繰り返し現れるでしょう。
そして何より、
私自身がそれを実践できているのか。
その問いを、これからも持ち続けたいと思います。
